江戸時代は社会保障制度がほとんど整備されていなかったこともあり、現在と比べて格段に障がい者に対して厳しい世界であったと考えている人は多いです。

しかし一方で、大河ドラマの中で描写されているように裕福な生活を送っている視覚障がい者もわずかながらいました。

果たして江戸時代の視覚障がい者はどのような生活を送っていたのでしょうか?

この記事では江戸時代の視覚障がい者がどのように生計を立てていたのかについて紹介していきます。

なおこの研究は、原田信一(1997)『近世の座頭にみる職業素描』駒澤大学文学部社会学科研究報告29巻p. 121-145に詳細が書かれています。

目次

  • 芸能に従事する人が多かった日本の視覚障がい者
  • 完全な実力主義であった江戸時代の視覚障がい者の世界
  • ついに取り締まりの対象になった視覚障がい者の貸金業

芸能に従事する人が多かった日本の視覚障がい者

琵琶法師、昔の日本では視覚障がい者は芸能に従事することが多かった
琵琶法師、昔の日本では視覚障がい者は芸能に従事することが多かった / credit:wikimedia Commons

江戸幕府は、士・農・工・商という四民に加え、穢多・非人などの賤民、そして僧尼や神官と並ぶ特殊な身分を設定し、民衆を職業や役割により厳格に区分・統制していたことは知られています。

その中で、視覚障がい者は百姓などといった従来の身分から抜け出し、寺社奉行の管轄下で特別な法的扱いを受ける存在であったのです。視覚障がい者たちは当道座(とうどうざ)という自治的互助組織に所属していました。

視覚障がい者たちは琵琶や三味線の演奏や鍼灸を行い、それで生計を立てていたのです。

なお当道座に所属することができるのは男性の視覚障がい者だけであり、女性の視覚障がい者は瞽女座(ごぜざ)という自治的互助組織に所属して芸能活動を行っていました。

このように江戸時代の視覚障がい者は芸能に従事している人が多かったですが、その理由としては古くからの伝統が挙げられます。

というのも平安時代中期には琵琶法師と呼ばれる琵琶を演奏して生計を立てる盲目の僧侶の芸人が生まれており、それ以降芸能は視覚障がい者の主な生計の立て方として捉えられるようになりました

完全な実力主義であった江戸時代の視覚障がい者の世界

視覚障がい者の中には高利貸しを行うものもおり、その中には吉原の遊女である瀬川を身請けした鳥山検校のように大富豪になるものもいた
視覚障がい者の中には高利貸しを行うものもおり、その中には吉原の遊女である瀬川を身請けした鳥山検校のように大富豪になるものもいた / credit:いらすとや

また幕府による保護があったこともあり、視覚障がい者の中には貸金業に従事する者も多くいました。

しかし、やがてその貸付行為は、厳格な取立てと高利貸業へとエスカレートします

幕府は、当道座の自治を認め、死罪に相当する重犯罪に対しても座法に基づいた処断を行うなど、一見温情的な措置を講じていました。

これにより、時には武士や町人との金銭トラブルを引き起こす事態も発生したのです。

たとえばある旗本があまりの金利の高さに借金を返済することができなくなり、突如として江戸から失踪するという事件が起こったりしています。

このような貸金業に対する保護があったのは、社会的弱者になりやすい視覚障がい者たちに対する救済措置という面もありますが、高位の官職を得るための資金を蓄えやすくするという面もありました

というのも当時の当道座の中には検校(けんぎょう)を最高位とする厳然たるヒエラルキーがあり、視覚障がい者たちは73もの位階に分かれていました。

そのため視覚障がい者たちは少しでも上の位階に就くために日々精進していたのです。

もちろん先述した音楽や鍼灸に励むことによって出世を目指す人も多くいましたが、当然視覚障がい者の全員がこれらの才能に恵まれているわけではなく、それゆえ貸金業で手っ取り早く資金を調達して出世を目指す人も決して少なくなかったのです。

なお視覚障害は遺伝とはほとんど関係ないということもあって、これらの出世レースに世襲の要素が絡むことはほとんどなく、それゆえ検校は全員叩き上げでした

加えて幕府は株仲間を通じた通貨統一や、直轄の鉱山・鋳造権を背景に、全国的な経済統制を進める中で、座頭の金銭取引にも手厚い保護を与えたのです。

こうした施策は、徳川体制の確固たる封建秩序と中央集権的な統制の一環として、各身分の相互扶助や官職昇進の仕組みと深く連動していました。

結果として、検校の金貸業は単なる金銭取引を超え、江戸時代の政治・経済構造を象徴する重要な制度として、その存在感を強く残すこととなったのです。

ついに取り締まりの対象になった視覚障がい者の貸金業

芝居「一曲奏ひとかなで子こ宝だから曽我そが」の登場人物である桐山賢行の絵、江戸時代当時でも鳥山検校の栄枯盛衰を題材にした創作は行われており、この桐山賢行は鳥山検校をモデルとしている
芝居「一曲奏ひとかなで子こ宝だから曽我そが」の登場人物である桐山賢行の絵、江戸時代当時でも鳥山検校の栄枯盛衰を題材にした創作は行われており、この桐山賢行は鳥山検校をモデルとしている / credit:東京都立図書館

しかしこのような時代は長く続きません。

正徳二年(1712年)八月三十日、幕府は惣検校に対し官金取締令を発し、視覚障がい者による官金貸付の実態に厳しい目を向けることとなりました

短期の貸借契約、礼金・早利といった高利貸、返済の強要や公的訴訟の濫用などを取り締まり、「座頭共詰させ、不作法成仕形」に対しては速やかな逮捕を命じる厳格な措置が示されたのです。

これは、武士に対する高利負債救済の必要性に迫られ、浪人や町人の資金が仲介業に流入していた現状への対応でもありました。

さらに、鳥山検校(とりやまけんぎょう)をはじめとする視覚障がい者の高利貸しの資産家の台頭が顕著となり、高利貸しに起因する社会問題が一層深刻化していたことも理由として挙げられます。

これにより鳥山ら暴利をむさぼっていた検校は官位をはく奪された上当道座から追放され、江戸からも物理的に追放されました。

 

障がい者というとどの時代も歴史の陰で静かに生きていたイメージを持つ人も多いですが、江戸時代には健常者以上に目立つ活躍をした視覚障がい者も多くいたことが窺えます。

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参考文献

近世の座頭にみる職業素描
https://komazawa-u.repo.nii.ac.jp/records/2006548

ライター

華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。

編集者

ナゾロジー 編集部

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