
ネタバレなしのレビューでは、本作の犯人については明かさずに思うところを書いたのだが、今回は、犯人を明らかにした上で、本作の、特に犯人と車掌とが対峙する後半部を考察しながら、感じたことをまとめてみたい。
以下は、ネタバレ前提で話を進めるので、Netflix版『新幹線大爆破』未見の方は、見終わったあとに、何かひっかかるところがあったら、またこのページを開いてもらえればと思う。
———–以下、ネタバレあり———–
救出された人、されなかった人
時速100kmを下回ると爆発するという爆弾が仕掛けられた「はやぶさ60号」。総合指令長の笠置らは、この列車の最後尾を切り離し、別に用意した列車を連結し、乗員乗客を移乗させて救出しようとする。これは、原作となる1975年版『新幹線大爆破』で警察側が提案し、国鉄側にそんなことは不可能だと却下されていた方法である。リブート版では、この案をJR東日本側が出し、実行するに至る。ここで、原作にあった、救援車を並走させ、そこから必要機材をロープで吊って引き渡すというアイデアが組み込まれる。 切り離された「はやぶさ60号」の最後尾車両から、車掌の高市が飛び移った後、速度を失った切り離し車両が犯人の予告通り爆発したあたりで、また映画は全体の長さの半分ほど。そのあと救出号に乗客が移乗し「助かった〜」という安堵感が流れると、映画の時間はあと半分ほど残っているけど、もうこれ以上何かすることがあるのか?と思うほどだった。すべてがうまくいくのが、前半部である。だが、ここから少しずつ事態は深刻になっていく。救出号に移乗しようとしない乗客がいたのである。 一人は後藤。マスク姿の怪しい男である。観光会社社長だが自社のツアーの事故で死傷者を出し、ネット上で「こんなやつは助けたくない」と炎上する事態になった。整備不良が原因で死傷者を出した観光会社、というと2022年に起こった知床遊覧船沈没事故を思い出す。それがモデルかもしれない。後藤は、死傷者を出してしまった企業経営者の末路の象徴といえるかもしれない。彼は「俺は死にたいんだ」と叫び、列車とともに爆死する意思を示す。便乗車掌の藤井が彼を取り押さえ、高市も援護のため救出号から「はやぶさ60号」に戻る。 もう一人は、小野寺柚月。修学旅行中の高校生である。同級生らが救出号の中に「柚月がいない」と気づき、引率の教師、市川が生徒を探すために引き返す。これにつれられるように、国会議員の加賀美とその秘書・林、YouTuberの等々力も「はやぶさ60号」に戻ってしまう。その後のトラブルで救出号は離脱せざるを得なくなり、爆弾が仕掛けられた「はやぶさ60号」には乗員3名(高市、藤井、運転士の松本)と乗客6名(後藤、小野寺、市川、加賀美、林、等々力)が残されてしまった。
そして、この残された9名の中に、犯人がいたのである。
以下、犯人名を明らかにしたうえで、その心理や作劇について迫っていきたいと思う。
「犯人」はなぜ自ら犯行を明かしたのか?
国民から1000億円を集めれば、解除方法を教える。それが犯人の出した条件だった。しかし、等々力が始めたクラウドファンディングには、金が集まらなくなっていた。乗員乗客9名を残してほぼ全員が救出されたことで、「残り9名を助けるために1000億円を出す価値はない」と判断されたのだ、と等々力はいう。
他に打つ手はないのか。ブレーキをかけて止めることはできるのか。残された乗客の問いかけに対して、高市は「技術的には可能です」と言った。そのとき、「そんなことが、本当にできるんですか」と畳み掛けたのが、高校生の小野寺であった。
高市の「技術的には可能」の意味は、運転士がブレーキをかけるという意味ではなく、列車外部から遠隔操作で列車を止めることもできなくはない、ということだろう。この返答を聞いて、小野寺は行動を起こす。彼女は乗客のいる車両から出ると、父親に電話をかけた。その短時間のやりとりから、彼女が父親から普段、どのような扱いを受けていたのかを推察することができる。安否をたずねる父親に「うん、大丈夫だよ」と答える、ごくありきたりの会話だが、父親はその受け答えに激昂し、娘に御託を並べ始める。しかし娘はそれを跳ね除け、父親に、部屋に仕掛けた爆弾を見るように促す。そして、スマホでそのスイッチを押すのである。
自宅ごと父親が吹っ飛んだ様子を、新幹線の車内にいる彼女が見たわけではない。だが、その次の瞬間の小野寺の顔に浮かぶ、恍惚の表情には、異様なまでの説得力があった。それは彼女にとって、今まで負わされてきた忍耐と苦しみのすべてから解放された、至福の時だったのだ。そして、それまで同級生どうしの間でもオドオドして、心ここにあらずという感じだった彼女が一変する。乗員乗客のいる車両に戻ると、彼女は彼らの前で電話をかけ、爆弾の解除方法を教える、というのである。
では、なぜ小野寺は、列車を止めることは「技術的には可能です」という言葉を聞いて、自分が犯人だと名乗り出る気になったのだろうか。爆弾の解除方法は、彼女自身を殺すことであった。もし、それ以外に外部から、新幹線を止めて爆破させることが可能であって、それが実行されてしまうと、自分以外の8人も死んでしまうことになる。それは、彼女の目指すところではなかった、ということだろう。だからこそ、その最悪の措置が実行される前に、解除方法を明らかにしたのだ。そして、車掌の高市に言い放つ。「仕事なら、できるでしょう」と。
この「犯人」が明らかになる過程で、もう一つ、衝撃の事実が明らかになる。小野寺柚月の父親が、実は原作『新幹線大爆破』で犯人グループの一人、古賀を逮捕に向かった警察官のうちの一人だったのだ。古賀はアジトになっていた沖田の町工場をパトカーで包囲されると、ダイナマイトで応戦。最後は自爆して果てるのだが、警察が、自爆では体面が悪いと、小野寺が射殺したことにした。そのことで勘違いした小野寺は、自分が新幹線を救ったと言いふらすようになっていたのだ。
しかし、実際に高校生の小野寺柚月が一人で犯行に及んだとは考えられない。共犯者がいると考えた警察の捜査線上に上がってきたのが、古賀という男である。彼は小野寺によって射殺されたことにされてしまった犯人、古賀の息子であった。
なぜ、高市は「犯人」を抱きしめることができたのか?
小野寺は、自ら犯人だと明かしたあと、急にふてぶてしくなり、他の乗客とは離れたところに腰掛け、挑発的な目で彼らを見ていた。教師の市川が、そんな彼女に語りかける言葉の「わかってない」感が、すばらしい。小野寺が、教師の「家庭が大変だと知りながら、大丈夫そうな彼女の様子を見て勝手に安心していた」心情を暴く中で、あの、父親の待つ家を爆破したときの恍惚の表情の意味を悟り、そして共感へと導いていく。
瀕死の重傷を負った藤井を見ても、まったく心を動かされる様子のない小野寺だが、むしろ彼女は自分が今まで負ってきた痛み、苦しみ、我慢とそれを周囲に悟られないようにする「嘘の自分」を演じることから解放され、自分以外の他人が今、目の前で自分が強いられてきた苦しみを受けて感情をむき出しにする、その様子を見て楽しんでいる。高市は、瀕死の藤井を救いたいと小野寺に迫るが、彼女は「それなら私を殺してください」の一点張りである。高市は「そんなことは絶対にしない」というが、この場面から車掌・高市と犯人・小野寺の直接対決につながってゆく。進退極まった高市は制帽を脱ぎ捨てると、ついに小野寺の首に手をかけるのだ。
首を絞められながら、「その顔が見たかった」という小野寺。まさに豹変したその一瞬の表情は、本作一番の見どころといえよう。今のこの状況を作った張本人に対する、憎しみの感情が迸るのである。
しかし、ここからである。高市は苦しむ小野寺の首にかけた手をゆるめ、突然彼女を抱きしめた。すると驚いた彼女は抵抗するが、やがてその表情がみるみる崩れ、涙を流しながら言葉を搾り出す。「生きていても仕方がない」と。
なぜ、高市は手をゆるめて彼女を抱きしめたのだろうか。「新幹線の乗客か犯人である私の命か、あなたはどちらを守るのか」という選択を、彼女は迫った。「仕事なら殺せるだろう」いう言葉は、自分の父親が、犯人を射殺したという自分の仕事(本当は自爆であって射殺ではないのだが)を誇っていたことに対する、彼女の反感を物語っている。
高市が彼女の首に手をかけたとき、制帽を脱ぎ捨てていたことに着目したい。一度はそうしようとしたのは、仕事だからではなく、素の人間としての感情の爆発だったのだ。しかし、職業人としてではなく素の人間としての高市だったからこそ、同時に彼は「嘘の普通を壊したい」と豪語する彼女自身の「嘘」を見出すことができたのではないか。「犯人」としてふてぶてしく振る舞う彼女自身もまた、嘘の自分を演じている、ということに。彼女が爆弾を仕掛けた目的は、金でもなく、乗客を殺すことでもなく、生きていることへの絶望であった。そして高市は、ただ人として、この絶望に寄り添うことを選んだのだ。高市が、首を締めようとしたのも、その手をゆるめて彼女を抱きしめたのも、それは「仕事だから」ではない。人命を守ることと、人を救うということ。この、似て非なるものの対比が、ここに表現されていたのではないか。
「犯人」に残る謎、年齢が合わない問題について考える
本作は、犯人の小野寺柚月と古賀の父親が、原作である『新幹線大爆破』に登場した人物になっている、という意味からは続編という位置付けもできる。だが、よくよく考えてみると、年齢的に計算が合わない。まず、本作で「109号事件」と呼ばれている1975年版で警察官だった小野寺は、当時20歳だったとしても本作の時点では70歳ということになる。とても高校生の娘がいるような年齢ではく、子供は古賀の息子(演じるのは、安定のピエール瀧である)と同世代のはずである。
もう一つ、不思議なことがある。原作を見る限り、元過激派でバーのホステスに2年ほど匿ってもらっていた、という古賀に、息子がいるとは思えない。しかも、古賀は確かに犯人グループの一人だが、古賀を射殺したとはいっても、警察と交渉していたのは主犯の沖田で、爆弾の解除方法を知るのも沖田であった。だから古賀が死んでも新幹線は走り続けていたし、救うには沖田を生かしておく必要があった。
原作では、結局沖田から解除方法を聞き出すことは諦めて国鉄が自力で爆弾の除去作戦を実施し、沖田は国外逃亡寸前のところで発見され、追い詰められた末射殺される。息子がいたのは、この射殺された沖田の方だった。
このように、本作は原作とつながる部分があるのだが、その「連結部」に奇妙な歪みがあるのだ。しかし、この歪みがあったからこそ、本作は原作がそうだったように、ただのパニック映画に終わらない問いかけと余韻を残したと思う。
そもそも、なぜ今という時代に新幹線を爆破しようとするのか。1975年には現実味があった事件だが、現代ではその現実感が限りなく薄れている。実際に、列車内で乗客に危害を加えようとする事件は最近でも起こっている(東海道新幹線火災事件、東海道新幹線車内殺傷事件、小田急線殺傷事件、京王線殺傷事件など)。東海道新幹線火災事件(列車内で焼身自殺を図った)以外は、いずれも生きづらさを感じた男性が「無期懲役をねらった」「死刑になりたい」などという動機で起こした事件である。1975年のリアルは「追い詰められた男たちの一発逆転」だった。だが、2025年のリアルは「生きづらさを感じる男たちの拡大自殺」に変容している。本作の「犯人像」は、こうした現代のリアルを反映させつつ、原作と本作をつなぐ存在として創作されたのではないだろうか。古賀の息子による復讐、というだけでは現実味はあっても犯人に対する共感は得られす、現代のリアルを表現するには足りなかったのだろう。
犯人が女子高生だった、というのは意外性を狙ったのだろうと思うが、それが私は良かったと思う。それは「自分が我慢することで普通が保たれている」という生きづらさを抱える人が、自分に我慢を強いている人に復讐を果たす、というプロットには多くの人の共感を呼ぶ力があり、同時に、寂しい男たちを慰める時代のアイコンにされてしまっている「女子高生」そのものをぶっ壊してくれたような気がしたからだ。そして、その意味でも小野寺柚月を演じた豊嶋花の演技はすばらしかったと思う。
彼女は救出後、川越刑事の前でも「反省はしていない」「男に利用されたかわいそうな女の子、ではない」と、挑発的な態度を取り続ける。ここで川越は、満額が集まったクラウドファンディングの画面を見せるのだが、これはないほうが良かったと思った。この金は「普通の人々」の総意を表すものなのだから、集まらずに終わるシビアな空気を残しておき、ネットの上の顔の見えない人々が、今度は犯人叩き、鉄道会社叩きへ感情の赴くままに流れていく様子を感じさせる、みたいな辛口な味がほしかったように思う。
「ラストシーンは蛇足だ」と感じたワケ
本作のネタバレなしのレビューで、私は「本作のラストシーン、あの高市と運転士の松本が現場の作業員らに出迎えられる大団円の場面は蛇足だったのではないだろうか」と書いた。その理由についても、本作の最後に残る2つの余韻という観点から、まとめておきたい。
ラストシーンの一つ手前、といえばいいだろうか、刑事の待つ救急車に一人乗せられた小野寺柚月を、車掌の高市が見送る表情がアップになる。大きな仕事をやり切った安堵感と、彼女の無事を喜ぶやさしさがあふれた、なんともいえない表情である。
実は、本作の最初のシーンでも、二人は顔を合わせている。そのとき、修学旅行生の質問に答えて、高市はこう言った。
「新幹線はさまざまなお客様が乗車されます。皆さんのような修学旅行の学生の方はもちろん、あと何年かすれば、友達の結婚式に出るために新幹線を利用する方も、この中から出てくるかもしれません。その隣には家族で旅行する人もいれば、出張帰りの人もいる。お互いを知らない、目的も違うお客様が、同じ新幹線で同じ方向に向かっている。でも駅につけば他人同士。その背中を見送る寂しさって、なんかいいじゃないですか」。
高市は、そのあと藤井に聞かれて「おじさんの言葉は若い子には響かない」と言っていたが、しかし、柚月を見送る高市の表情には、まさに高市が語った「その背中を見送る寂しさ」が浮かんでいた。ここで、映画の冒頭とラストがつながった。そして、こんな大変な目に合わされた柚月にも、いつもと変わらない目を向けているのだな、と思ったのだ。修学旅行でその話を聞いていた彼女はポカンとしていたが、最後には、高市のいうその寂しさが伝わった気がして、その余韻のまま終わってゆく方が良かったように思ったのだ。
もう一つは、逆に柚月の視点から見た、まったく別の余韻である。彼女は、父が「犯人を射殺して新幹線を救った」という嘘を信じて自分を英雄化してしまったことを知っている。そして今、目の前に、今度は本当に新幹線を救った英雄が爆誕してしまった。自分を英雄だと吹聴した父親が彼女にとって怪物だったように、ひょっとしたら、この目の前の温厚な車掌も、いつか自分を英雄化して怪物になってしまうかもしれない。見送る高市を見る、柚月の安堵と不安の入り混じった表情には、そんな余韻を感じさせてもくれた。だからこそ、逆に英雄としてで作業員らに出迎えられる場面は、むしろない方がよかったような気がした。
この二つの余韻は真逆のものだが、それくらい、高市を演じた草彅剛の最後の表情には、すべてを物語るすばらしさがあった。
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