日曜日, 6月 8, 2025
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【シミー流映画の見方#8】ジョーダン・ピールと村上春樹 言語を持たない影が棲む地下という水底シミー

🧠 あらすじと概要:

映画のあらすじ

ジョーダン・ピール監督の映画『Us』は、幼いころに遊園地で行方不明になった女性が、大人になって家族とその遊園地を訪れるところから始まります。そこで彼女は、自分たちによく似た、理解しがたい存在と出会います。この出来事は彼女の心に潜む過去の記憶を呼び起こし、物語は未知の恐怖に満ちた展開を迎えます。

記事の要約

この記事では、『Us』を通じて描かれる「影」の存在と、村上春樹の作品に見られるテーマとの類似性について考察しています。著者は、映画の中で示される未知の恐怖が、実際には既知のものとして近くに存在していることを強調します。特に、地下に潜む抑圧された存在が、無意識の中にどのように位置づけられているかを探求しています。

村上春樹の作品にも見られる「影」が、言語を持たず、手を繋いでいるという描写は、抑圧された「野蛮」が現れることの不気味さを強調しています。映画と文学が交わる場所で、抑圧された側の表現がどのように形成され、恐怖を生むのか、またその恐怖がどのように私たちの生活に迫るのかが考察されています。

著者は特に、「知った後」の恐怖が生む距離感や、言語を持たない存在が人間社会に与える影響について、興味深く語っています。最終的に、抑圧された存在が私たちの周囲にいつでも潜んでいることを示唆し、その不気味さがどのように現れるかを追求しています。

【シミー流映画の見方#8】ジョーダン・ピールと村上春樹 言語を持たない影が棲む地下という水底シミー

ジョーダン・ピール『U s』。
村上春樹作品に出てくる「影」たちを映像化するとこんな感じだ!

「影」が、すぐそばにいることを教えてくれる!

【『U s』の概要と、恐怖の正体】主人公の女性は、幼い頃に、遊園地で行方不明になった。一瞬だ。一瞬だけど、その時の記憶が断片的にフラッシュバックする。親になり、家族で件の遊園地に行く。

そこで、自分たちと似た、人間らしき何かに出会う。

この手の映画は、謎の存在の正体が明かされるまでがキモだ。普通は。

黒柳徹子が、前は蜘蛛が怖かったけど、よーくよく観察し続けたら、怖くなくなったという。つまり、人は未知のモノこそ怖いわけで。

エイリアンも全体のカタチが見えれば、後は攻略パートに入るだけだから、怖い、が、少し冷静になる。

恐怖とは未知であり、既知は平静を呼び戻す。

けども、ジョーダン・ピールの描く映画は、「知った後」の方がより怖い、設定の妙がある。

この、「知った後」の方が怖いっ感覚ホント不思議なんだけど、つまりこれは「距離」なんだと思う。

既知のナニカは、未知を抱えたまま、君のあなたの「そば」にいる。

こうした、切迫感。

【村上春樹が描く「影」的な存在は、つまりは無意識で、そいつらは「手を繋いでる」】
だから、村上春樹世界にいるような「影」的存在、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に出てきた「やみくろ」も、「知った後」の方がより怖いかもしれない。

すぐそばに、「未知」がいることが「既知」になるから。

さて。

村上春樹作品では、井戸に潜ったり、地下に下りることによって、自分の、或いは人類の、「無意識」みたをなものと向き合う。

地下とは、人間の水底だ。

20世紀人文学最大の発見の一つは、この「無意識」である。

いや、逆に、「神は死んだ」あとに「無意識」が生まれたのかもしれない。

神のせいにできない、抑圧されたナニカが、人間の底にある、というイメージ。

フロイトは個人のものとしての無意識をみた。ユングは集団としての無意識をみた。

さながら、無意識が「手を繋ぐ」ように。

何故、『Us』と、村上春樹春樹的な「影」が似てると思ったかと言うと、

・地下にいること・言語を介さないこと

・手を繋いでいること

による。【地下は人間の水底。言語を持たない野蛮が棲む場所】

村上春樹のライフワークの一つは、イスラエルでの「壁と卵」の講演にあるように、壊れやすい卵の側に立つことだ。

えてして、犯罪を犯した側は、注目される。手厚く分析され、彼の彼女の言葉たちは、人々の善意、或いは悪意を刺激する。

そんな中、村上は『アンダーグラウンド』で、被害者の側の日常と、あの事件までの経過を描いた。

本当に、あの事件、オウム真理教地下鉄サリン事件は、象徴的だった。

日常とは別の、なふしがたいナニカが、「無言で」一斉に傘を突き刺さし、猛毒の悪意を撒き散らす。

ただ、その悪意は。近代の高度資本主義に抑圧されたナニカは。特定の集団でなく、1人ずつの分身として。「言語を持たない野蛮」として。

地下に抑圧されているのではないか。

ヘレンケラーを教えたサリバン先生が、「ウォーター」を必死に彼女に教えたのは。
「人間」になってもらうためだった。

人は、言語を持たない野蛮を飼っている。

地下は、あなたが降りて行かなくてもすぐそばにあり、そうした野蛮が踊っている。

抑圧された側、野蛮は。
こちらの世界にやってくる機会を待っている。

【手を繋ぐ、は本来は明るい営み。明るい営みを、野蛮が実践する不気味さ】
初期の『ミニオンズ』は、「手を繋ぐ」がテーマだった。血の繋がった家族ではない彼と彼女たちが、家族に「なる」良い話だった。

こんなにも違うのか。抑圧された側が手を繋ぐと。

『U s』における手を繋ぐ行為は、抑圧された野蛮たちが、個体の連帯でなく、一つの鎖のように描写されている。

なんとも不気味である。

村上春樹は、「影読み」など、抑圧されてきたモノ達への共感と理解を描いた。

ただ、時代は、抑圧されてきた野蛮を、否応なく現前化させるツール、インターネットを手に入れた。

「拳銃を持ったサル」だ。つまりは。

無理に扱うと、奴らが地下から出てくる契機になるのかもしれない。

ということを、この映画からイメージした。

ちなみに、『U s』の中で喋ってる奴いるじゃん!てツッコミは、この映画の恐怖を増幅させる仕掛けなので、またどこかで語るかも。

「我々はウサギを生で喰わされ続けた」

拳銃の暴発ではない。
この必然性が、また怖い。

シミー

読書会でファシリテーターをしていました。その経験から、本・映画・漫画について、「共感」と「理性」の両面から書いています。考えるのが好きな方と、言葉を共有できたらうれしいです。



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