木曜日, 6月 5, 2025
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『PERFECT DAYS』を良いと思えない人とは友人になれない(ネタバレ)あみジロー

🧠 あらすじと概要:

映画『PERFECT DAYS』のあらすじ

『PERFECT DAYS』は、70歳の公衆トイレ清掃業を営む主人公・平山が、東京の文化アパートに一人暮らしをしながら織り成す日常を描いた作品です。映画は彼の毎日のルーチン—早起きし、コーヒーを買い、仕事に向かい、銭湯や飲み屋での時間を楽しむというシンプルな生活—を淡々と映し出します。平山の生活には周囲との接触がありつつも、彼の内面は静かに流れています。彼の穏やかな生活は、時折訪れる小さな出来事によって彩られますが、それらは彼の日常の大きな変化をもたらすものではありません。映画は、そんな彼の生き方に焦点を当て、日々の状況を受け入れ、人生を肯定していく姿を描いています。

記事の要約

この記事では、映画『PERFECT DAYS』を「大人の映画」と称し、精神的に未熟な人には理解しづらい作品であると述べています。平山という主人公の生活の繰り返しからは、彼の独特の生活リズムや自己肯定感が見て取れます。映画はセリフが少なく、ミニマリズム的な表現が際立っているため、批評家の意見も分かれています。一部からは、トイレ清掃業の単純さが美化されすぎているとの批判もありますが、著者はその批評が表面的だと感じています。平山のラストシーンに描かれる微笑みと涙は、彼が人生の深淵を覗く瞬間を象徴し、視聴者に複雑な感情を呼び起こすとしています。最終的には、彼の生活の反復性と、そこから生まれる自己救済の感覚が強調されることになります。

『PERFECT DAYS』を良いと思えない人とは友人になれない(ネタバレ)あみジロー

世には、
「大人の映画」
と呼ぶしかない映画が存在します。
ガキには分からない映画、精神が未熟な人には退屈な映画。
そんな映画です。
老境のヴィム・ベンダースが東京で撮った映画『Perfect Days』はまさに「大人の映画」と呼ぶ他ない。
見終わった後もこの映画のことをふと思い出すこともしばしば。
でも言語化することが難しい。
どんな言葉で説明するべきか、と考える映画を観れたことは、人生の幸せのひとつだと思います。
では、この映画の魅力とはなんでしょうか?


主人公の平山が毎朝見上げるのは、天空に聳える東京スカイツリー。
彼もまた、私たちと同じ時代を生きている人に違いありません。
しかしその住まいは、時代から取り残されたような文化アパートで、職業は公衆トイレ清掃業です。
70歳違い男の一人暮らし。
世間の価値観で言えば、完全なる「負け組」と呼ばれても仕方ない、詫びしさを始めは感じさせます。
映画はそんな平山の毎日を淡々と追っていくように進みます。

まだ明けきらぬうちに目覚め、歯を磨き、アパート前の自販機で缶コーヒーを買って車に乗り込み、70年代の洋楽のカセットを聴きながら職場である公衆トイレに向かいます。
誠実で丁寧な仕事をし、終われば銭湯に赴き、夜は安酒場で一杯を楽しむ。
そして、アパートに帰ると古本屋で買った文庫本を読みながら眠りにつく。

その生活に見られる所作には、決められた行動を律儀にこなす独特の生活リズムがあり、そしてそのリズムにはこの主人公がいちから作り上げたというような自信と心地よさがある。
反復される日々には、予期せぬちょっとした出来事が波のように訪れますが、その波はやがて静かに引いていき、また平山の毎日が始まります。

極端に台詞が少ない主人公である平山がいったいどんな人物なのだろうかと、観ている者は想像を巡らせずにはいられませんよね。
実の妹との束の間の再会をするシーンから、私のイメージはこうです。

彼は裕福な会社経営者の息子として生まれた。
優しく真面目な性格から、厳しい父親の言いつけ通り、一流大学を出て親の会社で働きだす。しかし、中年になって、彼に精神的な危機が訪れる。なんからのきっかけで、自分の人生を抑圧し、支配してきた父親を許せなくなったのだ。そして彼は自分の家に絶縁を告げ、一人きりの人生を歩むことに決めたのだった。

もしかしたら、カメラマンになりたいという夢を追って父親と絶縁したのかな、とも思わせる描写もありますが、確かには分かりません。

しかし、この映画にとって、このような主人公の詳細なプロファイリングはほとんどどうでもいいと良いと思われます。
色んな過去があって、このような生き方しかできない男が、日々生きている。ただそれだけよい。
平山は目が覚めると、晴れていようと雨が降っていようと、空に向かってそっと微笑みます。
儀式のように繰り返されるその表情から、彼が世界を肯定し、現在の自分の小さな生活を肯定していきていることが分かります。
我々鑑賞者は、画面を通じて、平山の生活の反復に現れる彼の佇まいや表情と、感情の静かな流れをじっと見守る経験をします。
その反復の中に、彼という人物の手触りを受け取っていくのです。

このような平山の描き方に関して、次のような批判があるようです。
トイレ清掃員という低廉単純労働を美化し過ぎているというのです。
またwikipediaによれば、東大の先生がこのようなコメントをだしていることのこと。

メディア学者の林香里がニューヨークタイムズ紙東京支局の取材に答えた際には、本作が映しているものは日本の労働環境を無視した上で日本の平穏さを美化する「西洋人や男性の夢」であると述べ、「本作を素晴らしいと思う感性の人たちはお金持ちで、自身のタイムスケジュールから逃れたいと思っている人ではないか」と批判的なコメントをしている。

wikipedia

映画なので、色んな見方があっていいと思います。
私としては、
「この映画を観てこんな表面的なことにこだわったままでいられる人っているんだなー」
です。
何でもかんでも、ブルシットジョブだのオリエンタリズムだのにこじつけ、男だの女だのと言ってれば「批評」になるのならお手軽なものです(ついでに言っておくと、そういう紋切り型思考の軽薄さがリベラルを自滅させたのです)。

確かにこの映画は劇的な起伏に乏しく、台詞も多くありません。
ミニマリズム表現の極地といってよい。
ささやかなドラマと言ってよいのは、同僚の男に金をせびられたり、姪っ子が家出して平山のアパートに転がり込んできたこと、淡い好意を寄せている飲み屋の女将がいて、その元旦那からある告白を受けること。
しかしこれら日常の中で起こる様々な出来事は、彼の生活を根本から揺るがせるものではありません。
平山は様々な感情に揺れながら、それでも彼の人生は、日々の所作を反復しながら進んでいくのです。

東大の先生だろうと、トイレの清掃員だろうと生活の反復性に大きな違いはありません。
人間が生きる反復性には、外部からの批評を跳ねつける強固なものがあります。反復にはそれを生きるその人の人格が入り込んでいるからです。
問題は自らの反復性を肯定して生きることができるか否かにしかない。
金持ちか貧乏かということに問題を収斂したいのなら芸術や宗教は不要ですよね。
(その人が自らが反復性を肯定しているのかを問わずに単純労働者一般を同情してみせたりする身振りが軽薄性を逃れないのはこのためです。
「大きなお世話です」
と本人から言い返されて黙るしかない戯言に、批評性などありません)

そして訪れるラストシーン。
そんな日常の中で、ふいに平山に溢れる表情が、一人の男の人生を超えて、われわれの人生そのものの深淵を覗かせるように現れます。

平山はいつものように明け切らぬ早朝に目覚め、車で現場に向かいます。ハンドルを握りしめながら、やがて平山の顔には堪えきれないような微笑みと涙が同時に溢れてくるのです。

その微笑みと涙はどんな感情からなのでしょうか?
この判然としないラストの平山の表情に、この映画の「切実さ」といったものが表出します。
ふいに訪れるその「切実さ」が、観る者に得体の知れない感動を呼び起こすのです。
複雑極まりない涙。複雑極まりない微笑み。
そのすべてが、なぜか理解できてしまうような感覚がして、強い感染性を引き起こすのです。

おそらく平山は人生というものに微笑み、泣いたのです。
人生とは、泣いていいのか笑っていいのかわからない「何ものか」です。
何に対して泣けばいいのか、何に対して笑えばいいのか、そんなことさえ分からない。
ある瞬間に、ふいに胸に迫り来るのは、すべてに対する「愛しさ」ともいえる途方もない感情だけです。
その「愛しさ」は自分の小さな人生を肯定するわけでも否定するわけでもありません。
でも、世界が名状し難く愛おしい。
その愛しさは、ある瞬間に「自分の人生」のすべてが凝縮されるようにして、出現するようなものかもしれません。
そしてその複雑で神秘的ともいえる感覚を「確かに私は知っている」と観る者に思い出させるのです。
このようにして、ラストシーンは平山個人の人生を超えて、観る側の人生を貫くものとして、感情を揺さぶってくるのに違いありません。

この平山の泣き笑いを、「主人公の人生に対する後悔と満足が入り混じった表情」だと解釈する向きもあるようです。

確かに平山は何かを「捨てた」過去をもつ男であるのは確かでしょう。
しかし、彼が後悔の人生を生きているとは、その日常の佇まいから感じるのは難しい。

むしろ私はこう解釈します。
平山は、後悔というよりも、深い「絶望」を知った人間である。彼は自分の人生から確かな「絶望」を受け取って生きている。
(その絶望は姪っ子に語る言葉に表れています。
「世界は繋がっているように見えるけど、決して繋がらない世界というのもある」
しかしその「絶望」から、地味な反復的日常が彼にある種の「救済」をもたらしたという感覚が彼にはあるのではないでしょうか。

後悔と満足、くらいの話であれば、私たちは日々これを経験し、すぐに忘れてまた繰り返すといった凡庸なものでしかありません。 
むしろ平山は、後悔とは比べようのない深い何かと闘って生きた男のように見えます(毎夜繰り返されるモノクロームの「夢」は絶望して彼が捨て去ろうとしたことの象徴かもしれません)。

人は絶望を体験したあと、これを救済に転化しなければ、それこそ本物の「負け組」に終わります。
平山は絶望に再び陥るまいと、日々の反復を誠実に生きることで、自らを救済して生きてきたのでしょう(まさにトイレを磨きながら自らを磨くように)。
そんな彼の反復的日常を、
Perfect Days=完璧なる日々
と呼ぶのはある種のアイロニーであるように見えるかもしれません。
しかし、そこにある種の宗教的な感覚を見出すとするならば、人生という不思議としか言いようのない「何か」に対する作法として「完璧」と呼んでもよい気もしてきます。
そしてそんな完璧な日々に、ふいに訪れる「恩寵」とも言えるのが、あのラストシーンのように思えるのです。
街をゆっくりと暖かく染めていく朝日を浴びながら、「絶望」と「救済」がまさに隣り合うようにして、すべての人生を織りなしているという事実に、平山は無限の愛しさを感じのではないか、と。

「本作を素晴らしいと思う感性の人たちはお金持ちで、自身のタイムスケジュールから逃れたいと思っている人ではないか」
いったい、あらゆる芸術のどこを見てこの人は生きてきたのかと私が感じたことを、許していただけるでしょうか(笑)



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