🧠 あらすじと概要:
あらすじ
『ムファサ/ライオン・キング』は、主人公ムファサが王として認められる過程を描いた物語です。彼は孤児として王国に加わり、兄弟であるスカーとの複雑な関係や様々な試練を通じて「真の王」としての資質を示します。この物語は、王が血統ではなく行動と人格によって評価されるべきだというメッセージを持っています。
記事の要約
この記事では、『ムファサ/ライオン・キング』が持つ哲学的な側面に疑問を投げかけています。評論家は、映画が描く「王とは何か」というテーマが現代の立憲君主制の理解からかけ離れており、理想主義的だと指摘しています。特に、英雄的な君主像や王位の正統性の描写が、実際の政治制度とは無縁であることを強調しています。
また、ウォルター・バジョットの立憲君主制における君主の役割として、人格や試練の重要性が否定されることを論じています。日本の歴史からも、王位は血統によって保障されることがわかり、「王の徳」が必須ではない事例が紹介されています。
最後に、映画が「人格神話」を助長する危うさについて警鐘を鳴らし、現実の政治に則した制度の重要性を訴えています。『ムファサ』は、理想的な王の姿を描く一方で、その背景にある制度的な現実を無視した寓話として評価されています。
ムファサという“人格的英雄”の虚構
本作は、ムファサが血統ではなく行動と人格によって王として認められていく過程を描く。彼は孤児として王国に入り、スカー(タカ)との兄弟関係、外敵との戦いを通じて「真の王」としての資質を示す。ここにあるのは、いわば英雄主義的君主像であり、王であることは「試練を超えた者の報酬」であるというメッセージだ。
だが、この王観は明らかに現代の政治制度とは無縁である。
バジョットの君主観:王とは制度の容器である
ウォルター・バジョットは、1867年の名著『英国憲政論』において、立憲君主の本質を次の三点に要約した。•相談する権利(The right to be consulted)•奨励する権利(The right to encourage)•警告する権利(The right to warn)これらはいずれも、君主に実質的な統治権がないことを前提としている。君主は象徴であり、国民の感情を和らげ、制度に一体感を与える存在。人格的な優劣も、徳も、王位の正統性には関係ない。バジョットにとって王は舞台装置であり、国家が安定して機能するための「必要な飾り」である。むしろ王は、行動するより黙って微笑んでいる方がよい。
歴史的実例:武烈天皇の存在
日本の歴史を見ても、「王の徳」が必須でないことは明白だ。日本書紀において暴君と描かれた武烈天皇も、公式には歴代天皇として認定され、彼の血統を継ぐ継体天皇が即位している。たとえ悪逆非道であろうとも、王位とは制度によって保障される血統の継承であり、「ふさわしさ」という概念は後世のフィクションにすぎない。
子ども向け道徳ファンタジーの危うさ
『ムファサ』は、いわば**“徳治主義ファンタジー”**である。人格の高さが王位の正統性を担保し、試練を超えた者が王となる――これはディズニー的価値観としては理解できるが、それは物語の中で完結すべきであり、現実の政治制度や王制と混同すべきではない。この種の物語が繰り返されることにより、無意識のうちに「リーダーは徳を備えていなければならない」「人格がなければ資格がない」といった**危険な“人格神話”**が定着してしまう。
結論:王に人格は不要、必要なのは形式である
立憲君主制とは、「王が無能でも成立する制度」である。そこには、人格や試練ではなく、構造と形式こそが重要であるという冷徹なリアリズムがある。『ムファサ』はその制度的リアリズムを一切理解せず、王を理想化し、人格主義という幻想を描いた。その意味で本作は、政治制度論として見れば、危ういロマンティシズムに満ちた寓話でしかない。
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