『ジョブ理論』(クリステンセン著）Toshikazu Numano

朝の通勤電車で、ふと立ち寄ったコンビニでミルクシェイクを手に取る。その選択に、マーケティングの本質があるとしたら——あなたはどう受け取るだろうか？

『ジョブ理論』は、顧客の「購買行動」を巡る表層的なデータではなく、その“行動の背後にある進歩の欲求”を読み解く理論である。製品開発者、マーケター、イノベーターを名乗るすべての人に、本書は不可欠な問いを投げかける。

顧客の語られない動機を探る

なぜ人はある商品を選ぶのか。なぜ、買わないという選択をするのか。なぜ、顧客の語る言葉は、しばしばその真因を覆い隠すのか。

著者クレイトン・クリステンセンは「破壊的イノベーション理論」で世界的に知られる経営学者だが、本書ではあたかも顧客の心理をひとつずつ丁寧に紐解く臨床医のようだ。焦点は顧客が語る「ニーズ」ではなく、「進歩したい」という“文脈と動機”である。

「雇用される商品」としての視点

理論の核心は明快だ。顧客は商品を「買う」のではなく、「ある進歩のために雇っている」のだ。つまり、彼らは何かを片づけたいと思っている。習慣、期待、感情、社会的役割——そのすべてが購買行動に影響している。

たとえば、朝のミルクシェイクのエピソード。栄養補給や甘い飲み物が目的ではない。顧客は「退屈な通勤時間を埋めたい」「空腹感を10時まで抑えたい」というジョブを片づけるために、それを雇っていた。マーケティング的に言えば、同カテゴリーの競合ではなく、「バナナ」「ベーグル」「無消費」さえも“真の競合”なのだ。

セグメンテーションを超えて

この視点は、従来のセグメンテーションやデモグラフィック分析を乗り越える。年齢や性別ではなく、「顧客が今どんな状況にいて、何に困っていて、どんな進歩を求めているのか」を知ることが重要なのだ。

この考え方は、私たちに「売れる理由」ではなく、「使われ続ける理由」を考えさせる。それは柳田國男が民俗学で目指した「語られなかった声」を拾う作業にも似ている。購買行動とは、生活の記録であり、意味づけであり、ひとつの物語なのである。

あらゆるマーケティング領域への適用可能性

本書の汎用性は驚くべきもので、製品設計、広告コピー、販売戦略、UXデザインなど、あらゆるマーケティング領域に適用可能だ。さらには「なぜ顧客はその商品を手に取り、他の商品をスルーするのか？」という問いに答えるための、実践的なインタビュー手法まで提示されている。

「意味」への意志としての消費

ここで思い出されるのはヴィクトール・フランクルの『夜と霧』だ。極限状況下で人が求めるのは「意味」であり、マーケティングにおいても、商品に対して顧客が求めているのは「進歩という名の意味」なのである。

この理論を身につけることで、マーケターは単なる広告屋から、「意味の編集者」へと進化できる。人々の生活に寄り添い、彼らが望む“進歩”を形にすることで、商品はモノではなく体験へと変わる。

著者の思想と人生哲学の反映

著者クリステンセンは、病を患いながらもハーバードで教鞭を執り続けた人物である。彼の思索の根底には、「人はなぜ生きるのか」「何に貢献できるのか」という問いがあった。それが、本書にも流れる哲学性を生み出している。

マーケターへの最後のメッセージ

マーケティングを学ぶ者にとって、これは単なる理論ではない。社会と個人をつなぐ視座を与え、顧客理解を深化させ、真のブランド価値を構築するための思考装置である。

最後に引用したいのは、映画『マイ・インターン』の老紳士の言葉——「人はみんな、必要とされたいんだ」。ジョブ理論とは、その“必要とされたい”気持ちにどう応えるかを学ぶ書である。顧客の人生の進歩に、あなたのマーケティングはどこまで寄り添えているだろうか。