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概要
この記事は、人間が他者を「モノ」として扱う社会の実態を考察し、その結果生じる人間関係のミスマッチや問題点について述べています。具体的には、仕事や恋愛における選択が、数字やスペックに基づいて行われることの危険性を指摘し、心の部分を重視する重要性を提唱しています。
要約(箇条書き)
- 人間が「モノ」として扱われている現実について。
- 人材派遣業界での表現(「在庫」「出荷」)が象徴している。
- 他人を「使えない」と評価する文化は普遍的。
- 人間にも価格やスペックのような評価基準を適用する傾向。
- スペックだけで人間を評価すると、ミスマッチが生じる。
- 雇用や恋愛において、学歴や年収に基づく判断がされる。
- 数値化された基準だけでは、本質的な人間性を評価できない。
- 社会全体が人間を「モノ」として扱う構造を生み出している。
- 心の部分を無視せず、人間らしく生きることが求められる。
- 感情や人間性に目を向けることで、より豊かな生き方ができると提案。
そんなの当たり前だろ、と思うかもしれませんが、実際現実の世界では、私達は人間を「モノ」扱いし、
同時に「モノ」として扱われています。
人材派遣業界では、派遣会社に登録をしている人のことを「在庫」、派遣先が決まった人のことを「出荷」、
と呼ぶそうです。
会社だけでなく、友人などの人間関係において、他人を”使えない”と言ったり、
他人から”使えない”と言われたりします。
会社の上司が、自分が思った通りに動かず、成績を上げない部下を”使えない”と評価し、現場のことを理解せず、訳のわからないことを言ったりやったりする
上司のことを、部下は”使えない”と評価します。
友達、と呼ぶ間柄でも、面白いことを言えない人間や、自分の思い通りにならない、メリットをもたらしてくれない人間のことを、”使えない”と言ったりします。”使えない”、という言葉は、機械が壊れて使えない、部品が消耗して使えないなど、
「モノ」に対して使う言葉です。
しかし、私達は当たり前のように、”使えない”という言葉を使い、他人を「モノ」とみなし、
他人からも自分のことを「モノ」とみなされているのです。
これは誰かだけが悪いとか、個人の意識の問題とか、日本人だからとかではなく、
“みんな”そうなのです。
「モノ」は、
数字で価値を判断されます。
米にしろサービスにしろ、1,000円、10,000円などの価格がつけられていて、
より安い商品を買おうとします。
今はコスパ、タイパの時代なので、どれくらい省エネか、電気代がかからないか、時短になるかなどを数字で判断し、
使えるかどうかを決めています。
価格やスペックなどを見て、
自分にメリットのある商品を選んでいるのです。
同じことが、
人間同士でも起きています。
就職や転職において、求職者の学生や社会人に対して、学歴や資格、過去の成績などのスペックをもとに、企業にとってメリットがあるかを判断し、
“使える”人間を選びます。
婚活や恋愛においても、相手の学歴や年収、顔、身長や体重などの、スペックをもとに考え、いかに自分にメリットをもたらしてくれるか、幸せにしてくれるかで、
相手のことを判断し、選んでいるのです。
「モノ」であれば、単純に価格やスペックで判断して選べば、
それで事足りるでしょう。
それでも、安いから、コスパがいいからと買ってみたら、すぐダメになったり、かえって不便だったりする
ことが起きたりします。
価格やスペックで判断できる「モノ」ですら、ミスマッチが起きるのですから、
人間同士でミスマッチが起きるのは当然です。
人間は「モノ」とは違い、価格やスペック、数字や目に見える部分だけで、
判断できないところ、相性などがあるからです。
雇用のミスマッチや、結婚した後に起こる”こんなはずでは”、
が起きるのは当たり前で、仕方ないことなのです。
しかし、あまりにもミスマッチが起きるのは、相手のことを人間ではなく、
「モノ」としか見ていないからです。
学歴がいいからと採用してみたら、全然使い物にならなかったとか、過去に優秀な成果を上げているからと採用してみたら、職場の人間関係がうまくいかず、すぐ辞めてしまった、というのは、単純にスペックや、”使えるか”どうかしか
見ていないからです。
高収入、高学歴のイケメンや、顔立ちやスタイルのいい美女という、誰からも羨ましがられ、
自分でも誇れるような相手と一緒になったはずなのに、どこか満たされない。
「世間」から評価されるような、ハイレベルな相手と一緒になれば、幸せになれるはずだったのに、全然幸せを感じない、と思うのは、人間と一緒になったのではなく、スペックから選んだ「モノ」と一緒になったから
です。
相手という人間に対して、恋をしたり、愛したりというより、相手が持つスペックに恋をし、スペックを愛した、
と言えるかもしれません。
今はなんでもスピーディーに決め、
とにかく早いことがいいとされる時代です。
企業が求める人材にしろ、恋愛や結婚などのパートナーにしろ、短期間に選び、決断することが、
いいことだとされています。
相手にも時間的な制約や事情があり、いたずらに時間をかけてはいられない、
というのはわかります。
ただ、あまりにも短期間に決断を迫られる場合、判断できるのは、表面上の数字やスペック
だけです。
人間同士で必要な、相手の人間性の観察や相性の見極めをする、時間的、金銭的な余裕がないから、スペックだけでの判断を迫られ、
結果として、”こんなはずでは”というミスマッチが起きてしまうのです。
別にこれは、企業の人間だけ、男だけ、女だけが悪いとか、
間違っているとかの話ではありません。
私達が作り上げている、社会や「世間」が、人間を「モノ」と考え、「モノ」として評価し、「モノ」として扱って
いるのです。
そうは言っても、社会や「世間」を使っているのは、
私達1人1人の人間です。
つまり、
“みんな”なのです。
人間には自由や権利があるはずなのに、他人を「モノ」と見なすことで、相手の自由や権利を侵害し、他人からも、「モノ」のように扱われ、自分の自由や権利を侵害されることが、
普通に起きているのです。
人間を「モノ」扱いするというのは、
頭でしか人間を判断していないということです。
数字やスペックは、
頭で考え、比較し、判断することができます。
そういう、頭だけで判断できる評価基準や道徳、価値観で作り上げたのが、
今までの私達の社会や「世間」なのです。
なんでも数値化され、わかりやすい世界は、
ラクだし便利でしょう。
しかし、それは私達の頭が、数字や、善か悪かなどの二元論を通じてしか、
理解ができないからです。
数値化されて可視化された状態を気持ちいい、数値化されていない漠然とした状態を気持ち悪いとか面倒くさいと感じているのは、
私達の頭の部分です。
今の社会や「世間」は、私達の頭にとって都合のいい、居心地のいい、
ラクな世界なのです。
しかし、私達は頭だけでなく、
心があります。
頭だけで作り出した世界で生きられるほど、
人間は強くはないのです。
だからと言って、古代のような原始的な生活をして、
文明のレベルを下げろというわけではありません。
ただ私達は、人間としての頭の部分しか使わず、
心の部分を活かせていないのです。
頭だけに偏り、頭だけに頼る生き方を見直し、私達の心の部分にいかに目を向けられるか、感情を取り戻せるかが、「モノ」ではなく、人間として生きるための道なのではないか、
と思うのです。
具体的な方法はわかりませんが、正解がない、誰もやっていないからこそ、自分なりの答えを見つけて、人間らしく生きられたら楽しいだろうな、とも思うのです。
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