🧠 あらすじと概要:
映画「サスカッチ・サンセット」あらすじと要約
あらすじ
「サスカッチ・サンセット」は、サスカッチ(ビッグフット)という伝説の生物を中心にしたドキュメンタリー風のアニメーション映画です。物語は、サスカッチたちの一年間の生活を追い、春・夏・秋・冬の四季を通して彼らの営みや愛、死、そして自然との関係を描いています。サスカッチという存在は、アメリカの自然や文化の象徴であり、彼らの生活を通じて人間社会との対比や自然の厳しさを強調します。
記事の要約
この記事では、映画「サスカッチ・サンセット」の感想が詳細に述べられており、特にサスカッチたちの生き様や文化の形成、命と死の循環が強調されています。著者は、サスカッチたちが春に交尾し、夏には新たな命を育み、秋には人間の文明に出会い、冬には厳しい自然の中で生き残る様子に感情を揺さぶられたと述べています。
映画の視覚表現や、言葉を使わないサスカッチたちの行動から、観察と文化の発生が描かれ、登場人物の成長や感情の変化が深く掘り下げられています。また、著者はサスカッチと人間社会の対立、文化の侵略といったテーマに対する考察を展開しています。
観客はサスカッチたちの生活を通じて、命の尊さや文化の重要性を改めて考えさせられ、最後には希望を見出す姿が印象的です。全体として、映画は感動的でありながら、自然界の厳しさと人間社会の文化的側面が交錯する深い作品として評価されています。
私がサスカッチの存在を知ったのは、ゲーム『Sneaky Sasquatch』だった。猿人サスカッチを操作して、森から下りてきて、人間にバレないようにキャンプ場のバスケットやごみ箱を荒らしたり、無謀にも車を運転したり、好き勝手にどっこい生きる。
今作を観ている時、少し既視感を覚えてしまう。
とはいえ、サスカッチの伝承は本物の歴史に根ざしている。
カナダやアメリカの先住民たちは、遥か昔から“人ならざる森の住人”の存在を語り継いできた。アメリカの建国よりも古く、人間と自然との関係性のなかに、その巨体と足跡が刻まれている。
「ビッグフット」という呼び名が広まったのは、オレゴン州で大きな足跡が発見されてからだと言われている。
そして1967年、あの有名な「パターソン&ギムリン・フィルム」で、ブレブレながらも“それっぽい”姿が映されたことで、UMA界のスターとなった。
Patterson–Gimlin film:英語版Wikipediaより
日本ではやはり未確認系は空飛ぶ系が人気のような気がする。UFOとか、スカイフィッシュとか。🛸ネッシーは捏造だといわれたけど、屈斜路湖のクッシー、池田湖のイッシーは元気だろうか。湖の中ならワンチャンいるかも?と思わせる説得力がある。
日本版サスカッチは、広島のヒバゴンが一番近いのかも?
UMAとして懸賞金をかけられたり騒動になる、ツチノコ。山奥でこっそり生きていそう。🐍
「狭い国土では、大きなUMAは無理だけど、小さければいるかもしれない」——そんな国民的想像力の反映なのかもしれない。
だが、サスカッチは違う。アメリカ人にとって、サスカッチやビッグフットは広大な自然のなかにこそ生きていてほしい、そう思わせる存在。
だからこそ、この作品は成立しているのだと思う。
とはいえ。。。
予告を見ても中身が全くわからなかったし、心の中で、A24だし、アリアスター製作総指揮だからな~と覚悟をもって観に行った。:(´◦ω◦`):
まさか泣かされるとは思ってなかった。。゜(´⊃ω⊂`)゜。
サスカッチ一族の一年間を眺める生物観察のような映像。つい先日、アカデミー賞で長編アニメーション賞を受賞した動物達のサイレントアニメ作品『Flow』を思い出す。煽り文句の「あなたの【本能】を刺激する」は誇大広告ではなかったように思う。(もちろん、人を選ぶのかもしれないけれど)
私の感受性には、直撃する作品でした。(ノД`)・゜・。
以下ネタバレや、あーだこーだ。
ナイショ(´・×・`)
このへんないきものは、まだ日本にいるのです。たぶん。
サスカッチたちの春夏秋冬
最初に登場する4匹のサスカッチたちは、全員が似通った姿をしており、見分けがつかない。 A24らしい、作り物めいた気持ち悪いリアルさ。
人間である私たちが、初めて動物園で猿やゴリラを複数見たとき彼らの区別がつかないのと同じ。
この感覚は、たとえ日本・韓国・中国・アジア人の違いが欧米人には見分けがつきにくいように、逆に私たちが白人の顔の差異を見落とすような、“認知の距離”によるものであり、 まさに我々とは異なる種としての「他者」として彼らを捉えている状態なのだろう。
だが、物語が進むにつれ、観察を重ねるうちに、少しずつ個体差が見えてくる。
「わざと見分けがつかないように作っていたのだ」と、後から気づく。 人間側の観察力が鍛えられることで、彼らが“個”として立ち上がってくる。
そんなわけで、便宜上4匹に名前をつけた。
・群れのリーダーであるボスッチ
・そのつがいのママッチ
・2人の息子であるジュニアッチ・ボスではない悲しきオス。
ジェシーアイゼンバーグ演じるジェシッチ( ´∀` )
この4匹の春夏秋冬を、私は見つめ続けることになる。
A24らしく、台詞も解説もないまま進む映画『サスカッチ・サンセット』。
語られるのは、言葉を持たないサスカッチたちの一年間。 春・夏・秋・冬という四季を軸に、彼らの営み、愛、死、そして滅びの予感が描かれていく。
最初はただの動物の記録のように見えた彼らの営みの中に、やがて私は“文化のはじまり”や“祈りの形”のようなものを感じ取るようになる。 それを真似して継承し、残していくこと。
その姿に胸を打たれながらも、同時にそれがいつか消えてしまうのではという寂寥感も募っていく。
文化が生まれる瞬間と、消えかけている瞬間が同時に訪れているような、不思議な時間の流れ。
この作品を見ている間、私はずっとそのはざまに立ち尽くしていたように思う。
春は発情 やうやう早く打ち付ける腰つき
森の中、美しい緑の中で暮らす4匹のサスカッチたち。 彼らの姿は、「パターソン&ギムリン・フィルム」に寄せたような、どこか作り物めいたリアルさをもつ。
全員おでこがコブダイ🐟のように膨らみ、所々禿げた体毛。ヒトに近似する進化の痕跡のようでもあった。
ボスッチに従う群れたちは、ボスが最初に口にしてOKが出たものしか食べない。シダや果物、虫ばかりを食べる超ビーガンで、火も使わない。
小動物を愛おしそうに撫でる様は、森の賢人のようで、オラウータンを思い出す。
春は交尾のシーズン。清少納言が助走をつけてぶん殴ってきそうな見出し。(;・∀・) ボスッチとママッチの交尾を、ジュニアッチと共に切なく見守るジェシッチ。ボスになれなかったオスの悲哀、4匹しかいない世界なのに、動物の世界は厳しい。交尾を求めるときは、拳骨をぶつけるような仕草。この誘ってる時の顔が、「なあ?しようぜ?」感が言葉がないのに伝わってきて苦笑してしまう。求愛サイン、作中何度も出るので必修ですね。
ボスのエイ!ヤー!のような合図で3回打って、一拍いれて一回打つ。 エイで上ゲて、ヤーで打つ。( ゚∀゚)o彡°完璧にそろっている。
幾度となくやってきた合図なのだろう。
予告で見てきたシーンだが、最初木を切り倒そうとしているのだと思っていた。 こんな大木を切れるわけがないじゃーん!猿知恵か!!(≧з≦)プププと、ともっていたが、私の方が猿知恵だった。ウキッ( ˙꒳˙ᐢ ) 全く違うことが徐々にわかる。 叩いた音がこだまのように森に響き渡りるのを耳を澄ませるサスカッチ達。 こだまの先・・・その返答を待っている。
まるで象🐘ように春になり発情期がきて別の群れを探す。 別の群れを見つけない限り♂3♀1の4人(うち息子1)の群れは未来が暗い。
そして、ゴールデンベリー(ホオズキ)の横。不穏な音楽と共に現れる黒い果実。
それは発酵したベリーだろうか。
ボスッチが発酵果実を食べ酩酊し、今晩の家を壊し顰蹙を買い、ママッチを無理やり襲おうとして激怒される。(酔っ払いの生態はそんなに変わらないのね(ノ∀`))もてあます股間の暴れん坊将軍のボスッチは森を駆ける。「どうみてもアカンやろ!!」と、誰がみても止めそうな毒々しいキノコ🍄を新鮮もぎたて実食。ここで毒で死ぬのか?と思いきや魔法的なキノコの力で最高潮なボスッチ。 一人ドラッグ&アルコール大会。 そして何を思ったかピューマに欲情。爪と牙をもつピューマは普段ならサスカッチの敵だろう。威嚇しても寄ってくるボスッチの姿に「なんだこいつ!」(´ºωº`)と怯え気味なピューマ。
わかるよ。。。いつも見た瞬間逃げていく奴が、自分から寄ってくるなんて何かあるんじゃないかと思うよね。
☀ 朝になっても帰ってこないボスッチを案じて、ジェシッチは森へ探しにいく。 そして見つけたものーー。 慌てて木を叩くジェシッチ。ヾ(・ω・`;))ノぁゎゎ二回、二回のテンポで。叩くことは合図。これは「集合!大変!!」だろうか?と、観客が想像できる見事な描写。そして駆け付けた2人が目にしたのは、ピューマに腹を割かれたボスッチの姿だった。ピューマに欲情して案の定殺されるとかぁー、、、。
ダーウィン賞受賞まったなしである
ダーウィン賞:自らの愚かな行為によって死亡または生殖能力を喪失し、「劣った遺伝子を淘汰する」ことで人類の進化に貢献したとされる人物に贈られる賞
Wikipediaより引用
私の唖然を余所に、ボスッチを埋葬する三匹。遺体を運び、土を掘る。 ジュニアッチは意味をまだよくわかっていないのか、ぼんやりとその様子を眺める。ボスッチを埋葬した地面を見つめ、軽く握った拳を自分の額に当てるジェシッチ。 それを見たママッチとジュニアッチも真似をする。
その仕草は、十字を切ったり、手を合わせたりするような、人間の祈りにも似た動作であり、残された者が死者を忘れないと誓い、悼む儀式のようだった。
そして彼らは、埋葬した場所の上に草を曲げて輪を作り、小枝を三角形に置いたりする。 自分たちで作ったささやかな創作物。 普段は寝床も壊して移動し、痕跡を残さないように細心の注意を払っていたサスカッチ達。「ここにいた」事をあえて残す行為。
言葉はなくとも、それは確かに祈りであり、死者の墓標を大事にするその姿には文化や宗教を超えた、純粋な命への敬意が感じられた。
夏は万歳 ᐠ(‘ㅅ’)ᐟ そして継承。
ジェシッチが群れを引っ張るが、ママッチはボスッチの子を宿しており交尾を断られる。 「俺がボスなのに…」と言わんばかりの、拳骨をぶつける求愛の仕草が空を切る。不憫なの。( ;∀;)
森を進む3人の前の、大木に赤い「×」の印。❌人間の私の目線からしたら、「林業の人が伐採する木に印をつけているんだな!」とわかることが、未知の生物の痕跡である。人が大きい足跡を見つけて、ビッグフットの痕跡に驚くように、3人にとっては❌UMAの痕跡なのだ。
彼らはその記号に戸惑いながらも、妙に惹きつけられるように、木の匂いを嗅いだり、手を伸ばして確かめようとする。 まるでUMAが人間の足跡に反応するように、サスカッチたちにとっても人類の文化の痕跡が“UMA”として立ち上がっているかのようだった。
そして唐突に“それ”は現れる。
道路だ!!(´°Д°`)突然やってくる何もない場所。
左を見ても右を見ても、何もない空間が広がっている。
3匹は一歩一歩踏みしめるようにして道路に足を踏み入れる。普段森で暮らしているサスカッチ達は、危険から身体を隠すのにも森を使っている。こんなに開けた丸見えの場所を見たことがないからこそ、奇声を発し、自分たちを強く大きくみせようとしたのかもしれないようにも思う。だからこそ、マーキングなのかもしれない。 本来、サスカッチたちは森の木々に身を隠しながら生活し、視界が遮られることで捕食者や外敵から身を守る。それが彼らの生きる知恵だった。 それに対して、この道路のように開け放たれた空間は、どこにも隠れる場所がない。だからこそ、彼らは恐れ混乱し威嚇するような奇声を発する。
自分たちを強く大きく見せるため、排泄し臭いをつけ、必死に“存在”を刻みつけようとする。
人間は、あえてこうした開けた空間を作ることで見通しを良くし、安心や安全を確保している。 だがサスカッチたちにとっては、それは生存を脅かす「異常」な環境なのだ。
その行動は滑稽にも見えるが、同時に本能から来る切実な“抵抗”でもあった。
予告編でこの“万歳排泄シーン”を初めて見たとき、A24っぽい滅茶苦茶なやつだなぁーと、苦笑いを浮かべていた。
だが、映画本編の文脈のなかで見るこの場面は、まったく違うものとして迫ってくる。
笑いが痛みに変わる瞬間。
それは、観客である私自身が彼らを“動物”ではなく、“文化を持った存在”として見始めていたからだと思う。
あの「×」から道路への移動こそ、文化のはじまりと終わりが交錯する“狭間”だったのだ。 森の生きものたちにとっての終焉、そして人間にとっての文明の入口。
あの場所には、道路という物理的な境界ではなく、もっと曖昧で見えない境界線が確かに引かれていた。
3人は川を見つける。並んで水を飲み、ほっと息をついたようにも見えた束の間の静けさ。
川辺で遊ぶジュニアッチ。その傍らでジェシッチの目にとまったのは、水面に浮かぶ巨大な丸太だった。 赤い「×」がスプレーで描かれたその丸太の断面は、きれいな年輪が幾重にも層をなしていた。ジェシッチはその規則正しい模様に目を奪われる。 森で暮らすサスカッチにとって、倒木はあれど人の手によって伐採された木を見ることはない。 年輪の意味や概念を彼が理解していたとは思えない。 ジェシッチは、露出したその年輪をそっと指でなぞり数え始める。 ひとつ、ふたつ…彼の中にある“数”の概念が、ここでまた一歩前に進もうとしている。 春の段階では、鳥の卵の数を3つまでしか認識できていなかった彼が、とうとう「4」という概念に到達していたように思う。 “数える”という行為そのものが文化の始まりであるとしたら、ジェシッチの中で起きているこの小さな進化は、サスカッチという存在が持つ可能性を静かに示していた。
「4」の発見、その興奮か丸太の上に乗り、はしゃぐジェシッチ。
近くではお腹が張るのか胎児が動いたのか、ママッチが明らかに苦しんでいる様子を見せていたが、ジェシッチはまったく気に留めない。 「だからボスになれないんやぞ・・」( -ࡇ-)ハァァァ。 その刹那、丸太が転がり出し、ジェシッチは足を滑らし落下、丸太に足を挟まれてしまう。 慌てるジェシッチ。もがけばもがくほど丸太は回転し、足先から太ももへ、腹、胸と、じわじわと恐怖が押し寄せてくる。 ママッチもジュニアッチも焦って駆け寄るが、焦るほど丸太は食い込む。 ジュニアッチが持ってきた棒を見た時、てこの原理の再発見か!!と盛り上がったが、力点の位置が逆ゥ!!└( ´ Д`)┘ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙
じわじわローリングされ水没するジェシッチ・・・。
またしても、馬鹿な行いで二匹目の犠牲者が出る。(つд⊂)
その場ではどうすることもできず、二人は森へ引き返す。翌朝戻ってくると丸太は流されており、ジェシッチの遺体の周りにはカラスが群がっていた。カラスに向かって糞を投げつけ2人は必死に追い払う。
そしてママッチとジュニアッチは、静かにジェシッチの体を抱えて森の奥へ運ぶ。
再び埋葬の時がやってくる。今回の埋葬はジュニアッチが主体となって行う。春に見ていた儀式を思い出しながら、今度は自分の手でそれをなぞっていく。
ジェシッチの遺体に土をかけ、その上に草を折り輪をつくり小枝を添える。
祈りの言葉はない。だが、彼が何かを「継承した」ことが感じられる。悲しみを超え文化が受け渡される瞬間だった。
秋はサンセット。フリスビーが飛び急ぐ。
季節は移ろい、秋がやってくる。
緑だった森は少し温かみを帯びた色に変わる。
二匹は、まだ見ぬ仲間を求めて移動を続けていた。 そんな二人の眼前に、突然現れる赤い人工物──テント。 それは森の色彩とあまりにも馴染まない整然としたキャンプサイトだった。
これゼミでやったやつや!!とゲームの既視感。ヽ(´∀`)ノ
膜に包まれた無臭のナニカを、力づくで破り貪り食う。カラフルな骨の形をしたそれは犬のお菓子、硬い殻に包まれたそれは薬、その粉は洗剤。私たちはジップロックの開け方も、それが何かもわかる。
だがサスカッチは体当たりでしか理解できない。
この一連の行動を見て、あらためて彼らが嗅覚に頼って生きる動物なのだと思い知らされる。
完璧に密封されたパッケージを食べ物と認識できない。
そして予告で見た黄色いラジカセを見つける。
適当に弄っているうち、突然音が鳴り響く。
予告編で使われていたErasureの「Love To Hate You」。
一切言葉のない映画だったからこそ、突然流れ出す音楽に否応ない文明の力を感じる。私ッチです🐵
それに加えて、音楽を聴く猿とラジカセのSONY。
「音が進化した。人はどうですか。」
SONYウォークマン WM-501 CM「Walk Man’87 さる」
広告の歴史に残るこのCMでは、猿がウォークマンを通して音楽に触れ、感動する(ように見える)姿が印象的。 今、サスカッチを通してその再演を目にするとは。 「人はどうですか?」という問いが、そのままこの映画全体を通して投げかけられているようにも感じてしまう。 二人は森に響くその音に恐れおののく。 サスカッチたちは音で会話する。
だからこそ、音楽を知らない彼らにとって、音の洪水は雷に打たれるような体験。
やがてジュニアッチは、若さゆえの柔軟さから少しずつ音に順応していく。 リズムに合わせて身体がわずかに動き、口元がわずかに緩む──まるで、微笑んでいるかのようだった。
だがママッチはそれを拒絶した。突然激怒し、ラジカセをたたき割り、テントや椅子を暴力的に壊しはじめる。最初は混乱による感情の爆発かと思った。
だがそうではないのだろう。
思い返せば、春と夏に命を落とした仲間たちは、いずれも“興味”を持ったことがきっかけで命を落とした。
見知らぬものに近づき、害にさらされた。
侵入者は害悪でしかない──。 それを知るママッチの防衛本能が、ラジカセの音に順応しかけたジュニアッチを止めるように、暴力となって現れたのかもしれない。 それは、“文化”という名の侵略に対する怒りであり、母として群れを守ろうとする本能の表れでもあった。 その荒ぶるママッチを見て驚いたジュニアッチが、持っていたフリスビーを思わず投げてしまう。 それが奇跡的な軌道で飛びママッチの背中に当たり、 その衝撃で破水∑( °口° )!?
音も下半身も大洪水。
2人はキャンプから離れ森の奥へと移動する。
出産は命をかけた大仕事だが、自然界ではそれを悠長に行う時間も安全もない。
ママッチが産み落としたその赤子は、まだ粘液に包まれているものの、すぐに動き始めた。
それはA24らしい“生々しさ”と“静けさ”が同居した、奇妙にリアルな出産の瞬間だった。
新しい命・・・命名ベビッチ。(・@・)
血の匂いを嗅ぎつけて、ピューマが姿を現す。ヾ(・ω・`;)ノ春・夏と一人づつ亡くなっていたから、秋は赤子なのか!?大自然の厳しさに悲しくなる時、ママッチは咄嗟に出た胎盤を手に取り、まるでフリスビーのように宙に投げる。
ピューマの注意が逸れた一瞬の隙に、ママッチはベビッチを抱え、ジュニアッチと共にその場から逃げ出す。
ドタバタとした混乱の中、サスカッチの親子三匹はどうにか森の奥へと姿を消す。
胎盤は敵を遠ざけるための生贄として、文字通り“命をつなぐための盾”になった。
白き灰がちになりてわろし
そして冬がやってくる。 その雪化粧をした森を綺麗だと思う現代人の気持ちは、サスカッチには届かない。 冬は飢えの季節。
生まれたばかりのベビッチを加えた三匹は寄り添いながら移動を続けるが負担が大きい。
雪の中、彼らは鶏小屋のような囲いに出くわす。ジュニアッチはそこにいた鶏を手に取り、そっと胸に抱える。 食用ではなく寒さをしのぐための“生きたカイロ”として。
生き物を慈しむサスカッチ。
そして、謎の金属に挟まれた骨を見つけるママッチ。 ジュニアッチは、罠の中央に置かれたエサに興味を持ち、それを鶏に与えようとする。 トラバサミじゃん!ここで死ぬの!?ヤダー!!(´;ㅿ;`)と目を伏せたくなるような危機的状況だったが、ママッチの優れた危険回避能力によって事なきを得る。春夏であっけなく死んだ故に、どこに地雷があるかわからない。
サスカッチ絶滅ゲーム。:(´ºωº`):
鶏小屋とトラバサミ。
人家の匂いと、野生を退けようとする罠の存在に、ステージがハードモードに突入していることを知る。
朝、ママッチが目を覚ますと、ベビッチが動いていないことに気づく…:(´;Д;`):
なんでサスカッチすぐ死んでしまうん・・・。
それでも、ママッチは動かないベビッチを激しく揺さぶる。その諦めない母の手に、息を吹き返すベビッチ。(´;ω;`)ウオォォォォォォ
3人はぎゅっと抱きしめ会う・・。
正直、子供だろうが赤子だろうが、サスカッチの顔はみんなおっさんで可愛くない。開幕だったら、キモッ!(´・д・`)と一刀両断だっただろう。なのに、このシーンでは泣いてしまった私がいる。春夏秋冬、季節を同じくし、生死を見守った私はサスカッチフレンズだ。
むしろサスカッチそのものと言ってもいい。(錯乱)
ここを乗り越えたのなら、何があっても、もういいでしょ!と思っていたら山が燃える。
天城越え(´◉ᾥ◉`)
その煙をみて、仲間かもしれない!と、あの木打ちのリズムで返す。かつてボスッチが生きていたころ、みんなで打ち鳴らしていた音のリズム。音は静かな森に響く。 だが返ってくる返事はない。
歩き続けた先、彼らの前に巨大なサスカッチが現れる。急展開に頭がついていかない。( º ロ º)2人はその大きな仲間へ声をかける。
だがそれは動かず、応えず、ただそこにあるだけ。
建物の壁には、こう書かれていた──
「ビッグフット博物館」
建物の看板の木彫りの大きなサスカッチ。岐阜県のツチノコ館のようなものね(ノД`)・゜・。3匹がようやく辿り着いた“仲間のいる場所”は、既に人間の記憶の中でしか存在しないことを知らない。“ビックフット(サスカッチ)に会いたい”という純粋な願い。 観光客たちはかつて森にいたビッグフットに出会いたいと博物館を訪れ、ママッチとジュニアッチもまた、自分たちと同じ存在に出会うために、ここまで歩いてきた。人間とサスカッチの願いが重なる場所。
静かに佇む3匹を引く姿に私はまだ希望を感じていたい。
ほんとだもん!本当にサスカッチいたんだもん!
今作はアメリカ版の『となりのトトロ』である。
※ここまで長々書いてきてしまいましたが、更に好き勝手書きます、、恥ずかしロックだと思ってください(*ノωノ)
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