🧠 あらすじと概要:
『秋が来るとき』(2024)は、登場人物たちの「良かれと思った行動」がさまざまな波紋を呼ぶ様子を描いた作品です。物語は、ミシェルとマリー=クロードがきのこ狩りを楽しんでいるところから始まります。このきのこ狩りは、男性の魅力や女性の過去に関連するメタファーと解釈され、ミシェルの過去が徐々に明らかになります。
中盤で明かされるミシェルの過去や、娘ヴァレリーとの関係、さらには家族内での不運な出来事が続き、「良かれと思ってしたこと」が裏目に出るエピソードが展開されます。作中では、意図せぬ不幸を呼ぶ行動の真意や疑惑が微妙に描かれ、観客の思考を促します。
映画の題名が示す通り、「秋」は老いと終焉を象徴し、作品全体の静謐さと美しさを強調します。物語は愛に満ちた穏やかな結末を迎え、ミシェルの人生の意味を問いかけるようです。全体を通して、真実とは何か、自分の行動の選択がどんな影響を持つのかについて考えさせられる作品です。
序盤、ミシェルとマリー=クロードが「きのこ狩り」に興じる姿を見て、真っ先に思い出したのはアラン・ギロディ監督『ミゼリコルディア』(2024)の男性に欲情する“きのこ狩りが得意”な神父だった。あるいは『漁港の肉子ちゃん』(2021)の冒頭、かつて娼婦だった肉子ちゃんがせっせときのこを摘む姿も想起した。
そして中盤、ミシェルがかつて娼婦だったとわかり、連想が意外にも的を射ていたことに思わず笑ってしまった。最も、劇中冒頭で引用されるマグダラのマリア——すなわち“娼婦でありキリストに赦された存在”——に気づいていれば、もう少し早く察しがついたかもしれない。
断定はしがたいものの、やはりきのこは男根の、そしてきのこ狩りは娼婦としての仕事のメタファーなのだろうか。もしそうならば、娘ヴァレリーが食中毒を起こした一件も、母の娼婦としての過去への拒絶や、周囲からいじめにあった古傷を喚起したとも読める。あるいはラストで、孫のルカが平然ときのこを食したのも、かつて祖母の過去を嫌悪していた彼がとうにそれを受け容れている、という演出なのかもしれない。
良かれと思って……
本作では「良かれと思ってしたこと」が裏目に出るエピソードがいくつも描かれる。たとえば、ミシェルは「生きるため」に娼婦となったが、結果として娘に軽蔑されることになった。あるいは、家族を歓待するために採ったきのこで娘を食中毒にしてしまった。ヴァンサンは、ヴァレリーに母ミシェルと向き合ってほしいと願い訪ねたが、その直後に彼女は転落死を遂げることになる。
オゾンはそこに、微かに疑惑の余地を残す。「故意に毒きのこを混ぜたのではないか」「本当に事故だったのか」と観客に問いかけ、明示的な回答を与えない。その曖昧さが観客の感情と思考を揺さぶる。そして物語は、あえてその問題の追求をせぬまま、テンポよく進行していく。この淡々とした筆致は、さながら同じく多作家のクリント・イーストウッド映画のようでもあり、無駄がなく手際の良い作劇の見事さに唸らされる。
そんな宙吊り状態に強く突き刺さるのが、ヴァンサンのバーの開店祝いで流れる曲「Aimons-Nous Vivants」の「生きているうちに愛し合おう」という歌詞。そして、死期が迫るマリー=クロードが語る「よかれと思ったことが大切」という言葉だ。自分の行動が予期せぬ不幸を招いたとしても、周囲から疑いの目を持たれようとも、「よかれと思ったこと」を肯定し、「生きているうちに愛し合う」しかないのだ。真実は自分のみぞ知る。
秋
『秋が来るとき』(仏語原題『Quand vient l’automne』と同義)の「秋」とは、人生の老境を示すのだろう。小津安二郎の諸作において「秋」が繰り返し登場するように、それは「終わり」の直前の、侘しさと美しさの入り混じる季節だ。本作もまた、美しい秋の風景で始まり、そして美しい秋の風景で終わる。冬のように寒々しくはなく、紅葉の鮮やかな情感に包まれながら、物語は静かに幕を下ろす。その穏やかな終わり方は、ミシェルの人生が、最後まで愛に満ちていたことの証のようにも思えた。
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