【Amazon.co.jp限定】 ロジクール 静音 ワイヤレス トラックボール マウス M575SPd Bluetooth Logibolt 無線 windows mac iPad OS Chrome トラックボールマウス マウス ブラック M575 M575SP 国内正規品 ※Amazon.co.jp限定 壁紙ダウンロード付き
¥7,700 (2025年4月27日 13:11 GMT +09:00 時点 - 詳細はこちら価格および発送可能時期は表示された日付/時刻の時点のものであり、変更される場合があります。本商品の購入においては、購入の時点で当該の Amazon サイトに表示されている価格および発送可能時期の情報が適用されます。)

家族でブラジルに移住していたアントニオ猪木は10代の時、ブラジル興行中の力道山にスカウトされたことでプロレスラーとしての道を歩み始める。ブラジルに住む家族と離れ離れになりながらもプロレス界のスターに上り詰め、大人気女優とも結婚。実弟の視点から、そこに至るまでの試練の日々と最愛の人との出会いに迫る。※本稿は、猪木啓介『兄 私だけが知るアントニオ猪木』(講談社)の一部を抜粋・編集したものです。
力道山にスカウトされ
帰国したアントニオ猪木
力道山にスカウトされた兄貴は日本に帰国し、ブラジルに残った私たちはそれぞれの道を歩き出した。
寿一(アントニオ猪木の兄の1人。長兄で15歳年上)と宏育(アントニオ猪木の兄の1人。猪木家の四男)はそれぞれサンパウロとリオで空手道場を開き、快守(アントニオ猪木の兄の1人。猪木家の三男で、5歳年上)は結婚した妻の家族が経営する業務用洗濯機の営業の仕事を始めた。洗濯業は当時の日系人たちが請け負っていた主要な業種のひとつで、移民にとってはいわば「定番」の仕事である。
空手道場を始めた兄貴たちも、最初はいろいろと苦労があったらしい。まだ空手というものがブラジルで認知されていなかった時代、道場を開くと必ず、グレイシー柔術に代表されるブラジリアン柔術の猛者と称する人間が「道場破り」にやって来るのだ。
つまり、相当な実力がなければブラジルで格闘技の道場は開けない。
ブラジルに柔術を広めたのは日本人柔道家の前田光世(コンデ・コマ)と言われているが、その弟子たちが空手道場を打ち破りに来るのだから、同じ日本にルーツを持つ2つの格闘技がブラジルで交戦していたことになる。
もっとも、拓大空手部の実力者だった寿一らはそうした腕自慢を返り討ちにして、逆に自分の空手道場に入門させていた。
私はと言えば、現地の大学に通うかたわら、サンパウロのリベルダージ(日本人街)で売る日本の民芸品を扱う仕事を始め、それが軌道に乗った。
漆器や日本人形、五重塔のミニチュアなどを日本から仕入れ、観光客向けに販売する。日本とブラジルの間の貿易ビジネスはその後、私にとってのライフワークとなった。
日本プロレスに入門した兄貴の動向は、ほとんど知ることができなかった。
数カ月遅れでサンパウロの書店に入ってくる日本のプロレス雑誌だけが情報源だったが、まだグリーン・ボーイだった猪木寛至を扱う記事は少なく、時折届く兄貴からの手紙も「元気でやっています」といった程度の短いもので、具体的な日々の様子をうかがい知ることはできなかった。
当時のブラジルにもプロレスというジャンルは存在していたし、テレビ中継もされていたが、サッカー王国のブラジルでは、さほど人気のある大衆娯楽とは言えなかった。
力道山のプロレスには「空手チョップで外国人選手を倒す」というある種の情念が込められていたが、ブラジルのそれはメキシコのルチャ・リブレに似た大きなアクションで、戦いの要素は少なく、むしろ観客の笑いを取るような緊張感のないものだった。