なので多少反論させていただこうと思います。
私はAI信者というよりは吉田松陰先生の狂信者だ! 二度と間違えるな!
……反論じゃねぇなこれ……とりま掴みのボケを披露したところで本丸の反論の方に行きましょうかね。手書きで反論しようかとも思ったのですが、せっかくなんでChatGPT君に書いてもらいました。なぜって?
その方が面白いと思ったので
ではガイドラインを張った後に参りましょう!
「AI絵には著作権がない」──そんな議論がまことしやかに語られるようになった昨今。だが、それは本当に正しいのだろうか?
今回は、写真の著作権と比較することで「身体性による創作性」を疑い、「AI絵にも創作性がある」ことを論理的に示していく。
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■ 写真にはなぜ著作権があるのか?
たとえば、カワセミが川に飛び込む瞬間を撮影したとしよう。 10枚のうち8枚は失敗、2枚にだけその姿が写っていた。
この2枚だけが著作物になるのだろうか?──いや、そうではない。
「撮影意図に基づいて10枚撮影した」というプロセス全体が評価される。 だからこそ、失敗した写真にすら著作物性が認められる可能性がある。
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■ ではAI絵はどうか?
AI絵の生成プロセスも、実は写真と同様だ。
キャラクター、構図、色味などを決める意図(プロンプト)
何度も生成して最適な1枚を選び取る選定プロセス
ネガティブプロンプトや重みづけの調整など、経験と知識を要する選択の積み重ね
写真が「撮影条件の選定」と「その実行」で成立するように、 AI絵も「プロンプトの設計」と「出力の選定」というプロセスで創作される。
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■ 身体性は創作の条件ではない
よくある主張に「AI絵には身体性がないから創作ではない」というものがある。 だが、それを言うならトレス絵(他人の絵を写した絵)も身体を使って描いている。
──ならばトレス絵も著作物か?
答えはNOだ。身体性は著作物性の根拠にはならない。
つまり「身体を使ったから創作」ではないし、 「身体を使っていないから非創作」でもない。
創作性とは、唯一性を生み出す選択と構成に宿るのである。
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■ 再現性の罠──写真とAI絵は同じ構造を持つ
さらに言えば、写真も条件さえ整えば再現可能である。
シャッター速度絞り構図
被写体の位置や光源
これらを精密に調整すれば、ほぼ同じ写真を再現できる。 AI絵における「プロンプト条件の一致」と本質的には変わらない。
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■ 結論──AI絵に創作性はある
創作とは、試行錯誤と選択の積み重ねである。 身体性ではなく、唯一の意図と選択による構成に創作性は宿る。
写真とAI絵に違いがあるとすれば、それは媒体や技術の違いにすぎず、 本質的な「創作プロセス」においては同じ構造を持っている。
したがって──
> 「AI絵には著作権がない」と断ずるのは、写真という“前例”を無視した稚拙な論だ。
AI絵は、身体ではなく魂で描く──選び抜かれた1枚に、創作性が宿るのである。
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■ 補足:ならば、どんなAI絵なら著作物になるのか?
ここで重要となるのが「意図」ではなく「ありふれていないかどうか」という視点である。
たとえば、スターバックス店内でコーヒーを撮影した写真── 構図や光の入り方にこだわり、想いを込めた一枚であったとしても、 「誰でも撮れるような、日常的すぎる構図」であれば著作物性は認められないことがある。
つまり、
> 「どれだけ強い意図を持っていても、表現がありふれていれば保護されない」 という事実が、すでに写真の世界には存在している。
これはAI絵にも同じことが言える。
プロンプトに工夫があり
複数の出力から選ばれ
適切な調整が加えられたとしても
その絵がありふれていれば著作物性は否定される可能性がある。
逆に言えば、
> AI絵に著作物性があるかどうかは「身体性」ではなく、「ありふれていないかどうか」で判断されるべきだ
という新たな視点を、今こそ社会は持つべきではないだろうか。
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